85歳で肺炎にかかる。
熱が出て、ぐったりして、意識もぼんやりする。
食事が取れないので、鼻から管を入れて、胃に流動食を直接入れて、力をつけてもらう。
それに加えて抗菌薬で肺炎の原因となっている菌をやっつける。
2週間で肺炎が治ったとして、意識も回復する。次は食事を摂るために鼻の管を抜く。
でも飲み込む力が衰えてしまい、気管(空気の通り道)の方に間違って食べ物が入ってしまう。
そうなると誤嚥性肺炎といって、また肺炎を繰り返してしまう。
だから鼻の管が抜けない。
鼻に管が入ったままだと自分で抜いてしまうことが多いため、抜かないように両手を縛る。
両手を縛るのが可哀そうなら「胃ろう」を作って、お腹から直接胃に穴を開けて、チューブをつける。
鼻の管にせよ胃ろうにせよ、命は伸びる。
ケースバイケースで、意識がはっきりしていればいいが、寝たきりだとどんどん脳は衰え、妄想や幻覚が進み、子のことも分からなくなって、ただ命だけがある。
半年かもしれないし、5年続くかもしれない。
僕には本人が虚しく見え、家族は辛そうに見える。
管なんか抜いて、昔のように食べられなくなったら最期を迎える。
それも1つの道じゃないのかと思い、僕は思い切って聞いた。
「肺炎はよくはなったんですが、10年、20年も生きられるわけじゃないと思います。」
「最後はどこで迎えたいですか。」
その答えは、
「別に。」
あっさりと、特に強い希望はなかった。
本人の意志を踏まえ、管を抜けば死ぬ可能性は高く、医療者として管を入れざるをえない。
社会全体を考えた時に、こういった延命治療が医療費を膨らませ、税金を押し上げ、最期への閉塞感を漂わせていると感じる。
でも一人一人、自分の場合は、そんなことを考えられないか。
自分がそんな状況になると時間の流れ方も生き方も変わるのか。
寝たきりだと身体に支障がよく出る。痛みを伴うことが多い。
それでも人は死を恐れるものか。
命より大切なもの。
それが得られていたら、あるがままに最期を送れるかな。
命より大切なものって何だろう。
それを最期に贈れたとしたら、次の世界が見えてきそうだ。
〜現実的医療経済的な発想〜
社会全体で考えた時、将来は医療費が生活をより一層圧迫し、過度の医療が制限される可能性は十分にある。
「80歳以上で一定の基準を満たした高齢者は全身状態が落ちた時に、最初から経管栄養をしない」などというガイドラインや保険制度。その適正な年齢や基準は、思いのある人たちが懸命に治療してもほとんどの患者さんがよくならない基準か。